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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
エセン・ブカ(? - 1461年/62年)は、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のハン(在位:1432年 - 1462年)。ワイスの子。 == 生涯 == ワイスが没した後、モグーリスタン・ハン国は混乱した状態にあり、ワイスの遺子であるエセン・ブカとその兄のユーヌスはどちらも成人しておらず、いずれを支持するかで国内は二分された〔S.G.クシャルトゥルヌイ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、82頁〕。この時優勢だったのはエセン・ブカであり、ユーヌスは自分が不利な立場にあることを知るとティムール朝のウルグ・ベクの元に亡命した。このユーヌスの出奔によって、 エセン・ブカが唯一のハンとなる。統治期間のうち、最初の数年は順調だった。貴族(アミール)たちは皆忠誠を誓っており、1435年にワイスの死後にティムール朝に占領されたカシュガルの奪還に成功する。しかし、アミールたちは次第に若いエセン・ブカの権力が微弱と見做すようになり、ハン国は統制が取れない状態に戻り始めた〔。アミールたちの信頼をいくらか回復した後アクスに移り、ハン国の有力者であるドグラト部のサイイド・アリーと姻戚関係を築くため、娘のダウラト・ニガル・ハニムとサイイド・アリーの子との婚姻を成立させた。 国内の統制を回復させた直後、エセン・ブカはマー・ワラー・アンナフルのティムール朝からの奪還を試みた。1451年にティムール朝北方の領土に侵入し、サイラーム、ヤシ、タシュケントを攻撃した〔ルネ・グルセ『アジア遊牧民族史』下(後藤富男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1979年2月)、783-785頁〕。アブー・サイードがマー・ワラー・アンナフルからモグーリスタン軍を駆逐するため兵力を結集すると進攻を注視し、エセン・ブカの軍はモグーリスタン国内まで追撃されることなく撤退した。度重なる侵入に業を煮やしたアブー・サイードはチャガタイ家の分裂を図り、シーラーズに留め置いていたユーヌスに軍隊をつけてモグーリスタンに送り返した〔。ユーヌスはモグーリスタンのアミールの中に支持者を作り、カシュガルに進軍した。カシュガルを支配するサイイド・アリーはエセン・ブカに援軍を求め、エセン・ブカとサイイド・アリーの連合軍はカシュガル北東のフワーニ・サーラールでユーヌスを破った〔。エセン・ブカはユーヌスを捕らえて再びティムール朝に追放した。だが、それから間もなくユーヌスはモグーリスタンに戻って支持者を集め、エセン・ブカはユーヌスに対して決定的な勝利を収められなかった。 1461年/62年にエセン・ブカは没し、彼の死によってモグーリスタンは再び分裂した。西部にユーヌス、東部にはエセン・ブカの子ドースト・ムハンマドが割拠しており、ドースト・ムハンマドの死までモグーリスタンの分裂は続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エセン・ブカ (モグーリスタン)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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